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ローマ単独首位!!

ローマがついに、インテルを抜いて首位に

たちました!!



今季、14位まで沈んだチームとは思えない

驚異的な追い上げで、インテルの67の勝ち点を

アタランタ戦の2−1の勝利で、68で

今季初の首位になりました!!


メネズとヴチニッチの前線もいいし、

デ・ロッシとピサロの中盤もいい!!

そして、ブルディッソ、ファン、メクセスのディフェンスも

安定している。


そして何よりも、トッティのコンディションが上がり、

トニとのコンビに可能性を感じられるのが、嬉しい!!


なにはともあれ、残り5試合で首位です。

あとは、全力を尽くして、00−01シーズン以来の

スクデットを取っていただきたいと、切に願います(笑)


まさか、ここまでローマがくるとは・・・

ラニエリ監督に感謝・感謝!!

ローマ対インテル ローマが勝利。

ついに、ついにインテルのすぐ後ろに

つくことができた!!


デロッシのゴールで先制するも、一度は追いつかれ、

しかし、トーニが再び勝ち越しゴールを決めて、

2対1で勝利!!


ところでこの両チーム。

ローマとインテルには、古巣対決となる選手が

多数在籍する。


インテルのサムエルやキブは元ローマ在籍の選手である。

またローマにはピサーロやブルディッソがインテル在籍

であった。


他にもレアルを追われてインテルへとやってきたスネイデル

と、バイエルンを追われてローマへとやってきたトーニなど

似たような境遇の選手もいて、比較すると面白い!!


何はともあれ、ローマが勝利したことは、とても嬉しい!!

そろそろインテルばかりがスクデットを取るのも飽きて

きたし、今季こそ、ローマのスクデットで、気持ちよく

春を過ごしたいです(笑)

ローマのスクデットを願って!!

ずいぶんとご無沙汰してしまいました!!

さて、久しぶりにセリエAの話しでも

しましょう。

ブログではあまり書きませんでしたが、

ローマの試合は、欠かさずに見ています(笑)


今、私が愛するローマは3位で、首位インテルに

なんと、なんと4ポイント差なんですね!!


今週末のセリエA第31節で首位インテルとの

直接対決を迎えるローマ。

だが、その前に24日の第30節でリヴォルノ

と敵地で対戦します。


今週のこの2試合の結果次第で、私のテンションも

変わるでしょうな・・・

この大一番にトッティが戻ってくる話しもあります

けど、個人的にはヴチニッチ、トニ、メネズの

トライアングルは良かったので、その方がいいの

かなとも思います。

でも、トッティは久しぶりに見たいけどなあ!!


まあ、今から、楽しみです(笑)

西欧の神話・歴史・宗教まとめ読み〜まとめ

☆西欧の神話・歴史・宗教まとめ読み
 =総まとめ〜カエサルに学んだこと〜=


 ここまでギリシャ神話から、ローマ帝国の滅亡まで、長期に渡り、
 お付き合いをいただきまして、ありがとうございました。

 長期に渡ってお伝えしてきたことは、みなさまの考え方や
 生き方に、多少でも影響を与えられればと思い、一生懸命に
 ブログを発行してきました。

 もともとイタリアに興味があった自分ですが、イタリア各地に
 ある古代遺跡を見るたびに、深い関心を覚えるようになりました。

 そして古代遺跡にまつわるローマ帝国の歴史と、大聖堂や鐘楼と
 いった各地に必ずあるカトリック教会。この2つの遺跡・建物が
 どうして、混在しているのか、そこが興味の始まりでした。

 古代ローマ帝国とキリスト教、それにローマが大きく
 影響を受けたギリシャへと興味が発展していったのです。

 そしてそれを一つにまとめてみたら、分かりやすい西欧の歴史が
 浮かび上がるのではないかと思いこの「西欧の歴史・神話・宗教ま
 とめ読み」を連載したわけです!!

 ギリシャ神話は、トロイア戦争のような実際にあった出来事もあるが、
 物語の要素が強い。それも太い構成で、まさに読み応えのある名作で
 す。

 またキリスト教は、イエスの体を張ったインスピレーションが、
 心に残ります。イエスを信仰の対象としてではなく、一人の人物として
 伝えたくて、歴史の中に登場させました。

 そしてローマ帝国という、とてつもない大きな帝国の繰り広げられた
 様々な人間模様は、現代の世にも学べる歴史です。

 どうしてローマ帝国は繁栄し、あれだけ長く歴史を刻めたのか!?
 なぜキリスト教は、世界的規模にまで発展し、尚今でも信仰されて
 いるのか!?

 それにはそれなりの理由があり、それが現代を生きる上でも、
 学ぶことのできる重要な要素がたくさんつまっていると、
 思ったのです。

 例えをあげると、カエサルという人物がいる。彼は2000年以上も
 昔の人だが、彼から学ぶべきこともまた、たくさんある。

 人の上に立つ者に必要なことは、お金でも強さでもなく、人気だった。
 彼は市民から絶大な人気があったのです(笑)

 カエサルにはそれしかなかったが、自分に足りないものは、持っている
 人物と手を組み、そうして、政治を動かしたのである・・・

 人の上に立つ人間であっても、全てを兼ね備えた人などいない・・・
 それをカエサルは知っていた。自分という人間を知っていたのである。

 またカエサルは、共和制という政治システムじたいに将来的な不安を
 抱き、これを変えようと努力する。

 共和制とは、1人の権力者が独裁するシステムとは違い、元老院を
 中心にみんなで、話し合って政治を進めていくものだった。

 一見良さそうなシステムに感じるが、カエサルの時代には、大きな問題
 となっていたのである。

 その理由は、元老院が私利私欲で動く集団と化し、市民のことなど考え
 ない腐敗したものになっていたからである。

 それを聞いて、日本の国会を思い浮かべた人はいませんか(笑)

 それを強力な指導力で、ローマをまとめる力のある1人のリーダーが、
 必要だということに、カエサルは気づいた。

 しかもそのリーダーは、権力により、全てを牛耳るような、独裁者では
 なく、相手を許し、相手の考え方や文化や宗教を認める「寛容」の
 精神で推し進める。

 そんなリーダーが必要だと考え、そしてそれを自らが実行したのである。

 当時は負ければ奴隷になるか、殺されるかしかなかった時代である。

 それをカエサルは、負けた相手を許し、文化も言葉も生活習慣も変え
 ないで、それでいてローマの恩恵を受けられるようにしたのである。

 当然喜んでローマのために、尽くそうとする。
 ローマが大きくなっていく所以である・・・

 今でいうフランスやスペインなどの広大な土地は、カエサルがそこに
 住むたくさんの部族を平定し、結果ヨーロッパが誕生したと言っても
 過言ではないでしょう。

 今の経営者や政治家の中にも、人の上に立ったときから、自分の考えを
 推し進め、考えが合わないと、組織から外したり、考えを改めさせ、
 枠にはめるやり方が好きな人はいますよね。

 そういう人こそ、カエサルに学ぶべきなのではないかと思う。

 カエサルは、自分の考えに忠実に生きていた。そしてそれは、みんなも
 そうあってほしいと、考えていた。だから、「相手を許す」のだ。
 相手の考えを認めるのだ。そうやってローマは大きくなっていったのだ。

 この「相手を許す」というのは、キリスト教にも同じような考えがある。

 「自らの過ちを、悔い改めるなら、罪は赦される」
 これがキリスト教の根本の考えである。

 そしてローマ帝国同様に、どんな民族でも信仰を許されたのである。

 人の失敗をとがめずに、いい面を積極的に認めよう。
 これが「寛容」なんです。

 この結果、ローマ帝国は繁栄を広げていくのである。

 遠い昔のことではあるけれど、今でも学び取る教訓がある。
 「西欧の神話・歴史・宗教まとめ読み」をそんな気持ちで、お伝えさせて
 もらったんですが、皆様には、伝わりましたでしょうか!!

 ホントに、ホントに、長い間ありがとうございました!!

「ローマ帝国滅亡編」〜第8話〜 ローマ帝国の滅亡

☆西欧の神話・歴史・宗教まとめ読み
「ローマ帝国滅亡編」
〜第8話〜 ローマ帝国の滅亡


 西暦732年 トゥール・ポワティエ間の戦いで、イスラム軍を破った。
 西暦751年 カールの子であるピピンによって、メロヴィング朝を廃し、
        「カロリング朝」をおこした。
 西暦800年 教皇レオ三世がカール大帝(ピピンの子)にローマ皇帝の
         帝冠を授ける。  
 西暦843年 ヴェルダン条約を結ぶ。
 西暦870年 メルセン条約を経て、王国は3国に分裂。


 =衰えながらも続いた東ローマ帝国=


4世紀末以降のゲルマン民族の大移動で、西ローマ帝国は滅亡したが、黒海
北岸の穀倉地帯と結びつく経済都市コンスタンティノポリスを首都とする
「東ローマ帝国」は、財政・軍事が安定していた。

そして西が滅亡した後も、「ビザンツ帝国」として、1000年もの長きに
わたって、存続することになった。

皇帝権の継承者として、ビザンツ帝国は旧ローマ帝国領の東部だけではなく、
滅亡した西ローマ帝国の後釜に座った西欧のゲルマン諸部族にも、権威を
認めさせていたのである。

 前回紹介したカール大帝も、東ローマ皇帝に従属し、その権威を利用したの
 である。

そんなビザンツ帝国は、前に伝えた6世紀半ばの皇帝ユスティニアヌス帝が、
ローマ帝国を再建したり、7世紀にはイスラム勢力の征服活動に悩まされた
が、高度の軍事体制を整え、キリスト教世界の防波堤の役割を果たしていた。

11世紀になると、バルカン半島でスラブ民族の南下が進み、帝国のスラブ化
が進んでしまう。東方ではセルジューク朝の勢力が強まって、小アジアの
奥深くまで侵入してきたが、十字軍の力を借りなければ、撃退できなかった。

それでも12世紀のコンスタンティノポリスは、大経済都市として繁栄し、
約100万人の人口を擁したという。
 
 
 =十字軍の遠征により、混乱する東ローマ帝国=


セルジューク朝とは、11世紀に中央アジアのトルコ人が、イスラム世界に
侵入して建国した遊牧トルコ人の国家である。
 
そのセルジューク朝は、イスラム教の「カリフ」(神の使徒=マホメットの
代理人)に歓迎を受け、「スルタン」(権威の意味)の称号をいただくま
でになる。

スルタンは、トルコ人将校に土地の支配権を与え、兵士を養わせた。その
結果トルコ人は大領地を獲得して、イスラム世界の支配民族となる。

イスラム世界を制覇した遊牧トルコ人は、領地を求めてビザンツ帝国領の小ア
ジアへの侵入を繰り返した。それにより、エジプト・シリアを奪い、キリスト
イスラム教の聖地エルサレムまで占領したのである。

これに対抗できないビザンツ皇帝は、宗教上の対立関係にあったローマ教皇に
支援を求め、その結果、派遣されたのが十字軍なのである。

このときの教皇ウルバヌス2世は、非常に野心家であったと伝えられている。
ウルバヌス2世は、東西教会の統一と、西ヨーロッパ世界における教皇権の
強化を目的として、1096年夏の遠征開始を決議した。

ウルバヌス2世は雄弁に「聖地エルサレムは、乳と蜜の流れるところ、この地
で不幸なものは、彼の地で幸せを得るであろう」と説いた。

そして群衆は「神はお望みだ」と叫んで熱狂し、以後13世紀までイスラム教徒
に対する聖戦(十字軍)が続けらることに・・・
十字軍は十字のしるしをつけ、イエスの受難(十字架の道行き)を追い体験す
ることで、自分の罪をあかなおうとする武装した聖地巡礼だった。

第1回目の遠征こそ、エルサレムの奪回に成功したが、それは聖戦とはいえない
ような残虐なものであった。イスラム教徒の住人5万人のうち、4万人を殺害し
たえげつない戦いであったといわれている。

その後2回・3回と遠征するも失敗し、4回目には、ビザンツ帝国の首都、コンス
タンティノポリスを占領し、ヴェネツィアやジェノバの商人が経済の覇権を握り帝国は、バルカン半島のほんの一部を支配するにすぎなくなる。

スラブ民族の侵入に対し十字軍を送り込んで、侵入を防いだまではよかったが、その十字軍に占領されるとは皮肉なもんである(笑)

そして十字軍はというと、その後、少年十字軍を結成するも、悪徳商人の手で、奴隷として売り払われてしまう。さらに5回・6回・7回と十字軍が派遣されたが、いずれも失敗に終わった。

この結果、一時教皇権は強大になったものの、聖地の奪回に失敗したことから
最終的には失墜した。ビザンツ帝国も衰退した。では誰が潤ったのだろうか?

それは、十字軍兵士の輸送に携わったヴェネツィア・ジェノバなどのイタリア
諸都市が、東方貿易で急速に成長したのである。

これが交易圏の拡大となり、後のルネサンスや大航海時代へと続いていくんで
すね。


 =コンスタンティノポリスの陥落=
 

14世紀半ばになると、十字軍により衰退してしまったビザンツ帝国は、
近隣諸国のかっこうの狙い場所となってしまう。

バルカン半島とアシアの一帯は、全てオスマン帝国の勢力化に入っていた。
2200年にも及ぶ長い歴史の中で、ローマ帝国は初めて、強大な勢力に取り
囲まれたことになる。

当時皇帝であったマヌエル2世と、それに続くコンスタンティヌス11世は、
自らヨーロッパ諸国を訪ね歩き援軍の要請を行ったが、東方正教を国教と
していたため、カトリックを国教とする西ヨーロッパから賛同は得られ
なかった。

西暦1453年4月、オスマン帝国のスルタン・メフメト二世が、10万の大軍を
引き連れコンスタンティノポリスへ進軍した。

東ローマ側はなんと7.000人の兵士しか残されていなかったという。

しかしコンスタンティノポリスの守りは固く、10万の兵をもってしても
陥落は難しかった。

5月29日、夜明けとともにオスマン帝国軍の総攻撃が陸海両面から始まった。
 
堅牢な城壁をどう破ったのかは、諸説がいくつもある。

一つには、ボスフォラス海峡から金角湾にいたる数十キロの山道に密かに
木道を作らせ、夜陰にまぎれて72隻の軍艦をたくさんの馬と人力で移動
させて鎖で閉鎖されていた金角湾に浮かべるという戦術である。

城壁がなく一番弱い港からの奇想天外の攻撃を試みた戦法だった。
これが「トルコ艦隊山を越える」という有名な話しである。

もう一つは、給料面で折り合わずビザンツ帝国から、オスマン帝国に仕官
したハンガリー技術者ウルバンが、モンスターと呼ばれる砲身が26フィート
8インチ砲弾の重さが1344ポンドにも及ぶ巨砲を製造させたのである

当時の新型化学兵器ともいうべき大砲の登場である。この巨砲は、60頭の
牛と200人の兵士が引かなければ、てこを使っても動かなかったという。

これが難攻不落を誇ったコンスタンティノポリスの城壁に亀裂を入れさせ、
トルコ兵士がなだれ込むきっかけをつくったという・・・

またこれには別の話があって、それでも城壁は耐えれるほど堅牢だったとも
伝えており、真相は定かではない・・・

そして最後の一つが、なんと城門の一つのカギの閉め忘れであったという。 
そこからトルコ軍がなだれ込んだという話もある(笑)

ともかく、堅牢誇った城壁にも、トルコ軍の攻撃に耐え切れず、ついに
城内へとなだれ込ませてしまった。

そのトルコ軍の兵士達の前に立ちはだかったのは、皇帝の衣装を脱ぎ捨てて
剣を握り締めたコンスタンティヌス11世であった。

しかし兵士達はそれが皇帝だとは気づかずに、彼を撃ち殺した。

この瞬間に、トロイア戦争で生き延びたアイネイアスから始まり、カエサル
アウグストゥスが帝政を作り出したローマ帝国は、その約2.200年の歴史に
幕が下ろされたのであった!!

このころ、西ヨーロッパでは、ルネサンスが花開き、大航海時代が始まろう
としていた。

ローマ帝国最後の首都コンスタンティノポリスは、破壊されることなく、
イスタンブールと改名されて、オスマン帝国の都となり、このローマ帝国
第2の首都は、現在に引き継がれているのである・・・つづく

「ローマ帝国滅亡編」〜第7話〜 カール大帝による西欧世界の誕生

☆西欧の神話・歴史・宗教まとめ読み
 「ローマ帝国滅亡編」
〜第7話〜 カール大帝による西欧世界の誕生


 西暦534年 ローマ法大全が完成する。
       東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌスがヴァンダル王国を滅ぼす。

 西暦555年 東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌスが東ゴート王国を滅ぼす。

 
 

 =イスラム教の脅威=


 さて西ローマ帝国が滅亡した後、ゲルマン人は、ローマ帝国で異端とされた
 アリウス派を、信仰していたが、西暦481年にフランク族を統一して、
 「メロヴィング朝」を創始したクローヴィスは、アタナシウス派に改宗し
 た。

 アタナシウス派に改宗したクローヴィスは、旧ローマ貴族や、ローマ教会と
 提携して、力を伸ばしていったのである。

 ところがここで大きな問題が起きたのである。それはイスラム教である。

 イスラム教の創始者であるマホメットは、メッカの名門商業貴族の家に
 生まれた。

 マホメットは40歳の時に、メッカ郊外の洞窟で瞑想にふけるようになり、
 天使ガブリエルの啓示を受けたと称して、西暦610年に、唯一神アッラーを
 絶対神とする「イスラム教」を創始したのである。

 イスラム教とは、ユダヤ教やキリスト教の影響を受けて成立した厳格な
 一神教であり、すべての信徒には、神アッラーの奴隷としての絶対的な
 服従が要求されている。

 唯一神であるアッラーの意志は、預言者マホメットの口を通じて明らかに
 され、最後の審判が間近であるとしたマホメットは、自らをモーセ、
 イエスなど25人の預言者の最後に位置する最も偉大な預言者とした!!

 当初のイスラム教は、メッカで10年間布教に努めたが、信徒は1000人程度
 だったという。そこで教団はメッカを離れ、交通の要所であったヤスリブ
 (後にメディナと改名)に逃れ、再編をはかる・・・

 そしてこれ以後、イスラム教団は著しい発展を遂げ、西暦630年には、交易
 関係をめぐって対立関係にあったメッカの占拠に成功・・・そしてこれが
 アラビア半島に大きく影響して、イスラム教は一気に広まったのだ。

 その後、マホメットが亡くなると、神の意志が新たに得られないことにな
 り、イスラム教は混乱となるが、話し合いを根気よく続け、「カリフ」
(神の使徒=マホメットの代理人)を選び、危機の乗り切りに成功したの
 である。

 そしてついに、「コーランか貢納か剣か」のスローガンのもとに、世界史
 を変える「大征服運動」が始められた。

 8世紀初めには、ターリクという将軍に率いられたイスラム軍が、ジブラル
 タル海峡を渡ってイベリア半島(現スペイン)に攻め込み、わずか7年で
 西ゴート王国を滅ぼしてしまったのである。

 ピレネー山脈を越えたイスラム軍は、フランク王国にも攻め込み、なんと
 西ヨーロッパのキリスト教世界は、破滅の危機に直面したのである。
 
 
 =カール大帝=


 そのイスラム軍の侵攻を食い止めたのが、フランク王国の宮宰カール・
 マルテルだった。

 彼は全国の土地の3分の1を没収して、騎士に与えることで強力な直属軍を
 組織し、732年のトゥール・ポワティエ間の戦いで、イスラム軍を破った。
 こうして、ぎりぎりのところで守ったのである。

 これがきっかけとなり、宮宰であるカロリング家が、台頭しカールの子
 であるピピンによって、メロヴィング朝を廃し、西暦751年に
 「カロリング朝」をおこしたのである。

 そしてこのカロリング朝に、ビザンツ(東ローマ)皇帝と、教義上の対立か
 ら溝を深めていたローマ教会が接近し、権威の確立をはかろうとした。

 そして西暦800年のクリスマスに、教皇レオ三世は、ローマの聖ペテロ聖堂で
 礼拝中のカール大帝(ピピンの子)に自らの利益をはかって、ローマ皇帝の
 帝冠を授けたのである。

 そしてこれ以後、フランク王国は、ゲルマン人による「ローマ帝国」と
 見なされて、ローマ帝国の分離は決定的となり、帝権をフランク王国が、
 教権を教皇が、分担することになったのである。

 またフランク族には、子が財産を分割して相続するという慣習があり、
 西暦843年のヴェルダン条約、西暦870年のメルセン条約を経て、王国は
 3国に分裂したのである。

 一つは、西フランク王国から、カペー朝を経て、フランスになり、一つは
 ロタール王国から、イタリア王国を経て、イタリアになり、そしてもう一つ
 は東フランク王国から、神聖ローマ帝国を経て、ドイツへとつながって
 いく。

 とくに神聖ローマ帝国は、1806年にナポレオンに解体されるまで、諸王国の
 上にたつ権威を保つことになるのであった・・・つづく

 
 

 さて次回は、いよいよ衰えながらも続いた東ローマ帝国の最後をお伝えし
 ます。
 お楽しみに〜

「ローマ帝国滅亡編」〜第6話〜 皇帝ユスティニアヌスの功績

☆西欧の神話・歴史・宗教まとめ読み
 「ローマ帝国滅亡編」
 〜第6話〜 皇帝ユスティニアヌスの功績


 西暦476年 ゲルマン人傭兵オドアケルにより、西ローマ帝国最後の
       皇帝が廃位され、西ローマ帝国は滅亡する。

 
 

 =ニカの暴動=


 蛮族によって滅ぼされてしまった西ローマ帝国については、前回お話し
 させてもらいました。

 人によっては、ローマ帝国は東西揃ってこそローマと、言う人も多い。
 実際自分もそう思ってはいますが、少しだけ、東ローマ帝国についても
 お話しさせて頂こうと思います(笑)

 西ローマ帝国と違って、東ローマ帝国は優れた皇帝に恵まれたため、
 繁栄を続け、なんと15世紀まで続くわけです!!

 その東ローマ帝国にあって、特筆すべき人物が、今回の主役である
 ユスティニアヌスなんです!!

 彼は叔父のユスティヌスの跡を継ぎ、45歳でローマ帝国の皇帝に即位す
 ると、それからなんと、38年7ヶ月と13日にわたって、ローマを統治
 したのである。

 83歳のおじいちゃんになるまで、統治したわけですから、大したもんです。

 そんな彼が目指したのは、偉大なるローマ帝国の復興、ただ一つで
 あった!!

 しかし彼は皮肉にも、コンスタンティノポリスすら満足に統治できなかった
 といわれています(笑)

 統治できなかった理由が、競馬場の暴動化が市内全域に広がってしまった
 ことであった。いわゆる「ニカの暴動」である。

 ニカとは勝利という意味で、人々が「勝利せよ」と叫んだためであった。
 
 この暴動によって、コンスタンティノポリスは焦土と化し、多くの教会を
 含む美しい建築物は、ことごとく破壊され、途方もない量の財宝や美術品が
 何者かによって奪われたりもしたのであった・・・

 
 =ローマ帝国最後の皇帝=


 この「ニカの暴動」によって、裕福な市民たちは、ボスポラス海峡を越えて
 アシア側に逃げ出し、ユスティニアヌス自身も逃げ出そうとしたが、妃の
 テオドラがそれを引き止めた。

 「皇帝が逃げるなんて、プライドがなさすぎる行動はお止め下さい。私は
 女王という名を捨てることはできません。私は逃げません。逃げるくらい
 なら死んだ方がマシです」

 さらに、

 「どうしても逃げたいのなら、あなた一人で逃げてください。しかしあなた
 を待っているのは、惨めな放浪者として、流浪する一人の市民と同じ・・・
 のたれ死ぬのは見えています」

 妃テオドラのこの言葉に奮起した皇帝は、東方に派遣していた将軍ペリサリ
 ウスを呼び戻し、3万人の市民を虐殺した末に、なんとかこの乱を治める
 ことに成功したのである。

 良い皇帝には、必ず良い側近がいる。

 アウグストゥスには、自分が持っていない軍事的才能を持ったアグリッパが
 いたように、功績のある皇帝には、必ず周りも優秀なことが多いですね。
 このユスティニアヌスには、妃がまさに、有能な人であった。

 こうして辛うじて足元を固めたユスティニアヌスは、その翌年から周囲の国
 を征服し始めた・・・まずアフリカの旧カルタゴのヴァンダル王国を
 滅ぼし、西ゴート王国からは、イスパニア南部の領土の一部を、奪還した。

 ユスティニアヌスは、軍事的に成功を収め、20年をかけて戦い抜き、ついに
 ローマを含んだイタリア半島を、蛮族の国から、取り戻したのである!!

 この功績があって、彼はしばしば「ローマ帝国最後の皇帝」と呼ばれて
 いる。
 彼自身、貧しい農民生活から、皇帝に登りつめ、「ニカの暴動」を乗り越え
 て、歴史に名を刻んだのである。

 しかし、ここま広大になってしまうと、今のローマ帝国には、維持する力は
 なく、逆に歴史研究家たちからは、このとき広めすぎてしまったために、
 ローマ帝国の寿命が縮んだ原因とも言われているのだ!!

 なんとも皮肉な結果ですね・・・つづく

 
 

 さて次回は、カール大帝のお話しです。彼によって今の西欧社会が築かれる
 のです。お楽しみに〜

「ローマ帝国滅亡編」〜第5話〜 西ローマ帝国の滅亡

☆西欧の神話・歴史・宗教まとめ読み
 「ローマ帝国滅亡編」
 〜第5話〜 西ローマ帝国の滅亡


 西暦410年 アラリック率いる西ゴート族が、首都ローマを略奪する。
 西暦419年 西ゴート族がトゥルーズで建国
 西暦429年 アフリカ北岸にヴァンダル王国が建てられる。
 西暦453年 フン族の王アッティラが亡くなる。
 
 

 =西ローマ帝国の衰退の原因=


 ミラノをローマに変わる新しい首都としたのは、ディオクレティアヌスで
 あった。それから時は流れ、ミラノを首都とする西ローマは、満足な軍備
 を備えられず、ゲルマン人の侵入にも耐え切れない。

 そして前回お話しした、東西分裂からわずか7年後の西暦402年には、首都
 をミラノからイタリア中北部のラヴェンナに移していた・・・

 一体なぜ、西ローマはこうも衰退してしまったのか!?
 一番は人材でしょうね。そして人材が悪ければ、農業基盤も貧弱となり、
 人口も減っていく・・・それは当然軍人の不足という状態となる。

 軍人の不足を補おうとして、傭兵を雇うことにするが、当然それには資金
 がかかる。資金集めは住民の税金から集めるため、それは重税となり、
 住民はその重税の苦しみから、さらに住人が流出する結果となっていた。

 住人が減少すれば、経済は衰退する。西ローマはまさに、
 悪循環に陥ってしまっていたのであります!!

 そんな西ローマを、東ローマの人々は、属国なみと考えていたようです。

 ミラノを追われた西ローマが次に選んだ首都がラヴェンナだった。
 ここは古代ローマ時代の軍事上の要所である。

 だからといって、防衛力が強まるわけではなかったが、切り札がないわけ
 でもなかった。それがスティリコ将軍である。

 彼はゲルマン人ではあったが、テオドシウスの理念を受け継ぎ、蛮族との
 融合と、ローマ帝国の再建を本気で目指していた人だった。

 なのにである。彼の発案により、徴兵令を発したのだが、これが思わぬ
 方向へと飛んでしまう・・・

 もともとローマ帝国は、徴兵されるのは市民の義務だった。
 だが、今の平和ボケしてしまった彼らには、それを受け入れることは
 できず、スティリコ将軍を告発してしまう。

 なんと切り札的存在だったスティリコ将軍を、ゲルマン人たちと通じてる
 という理由で、処刑してしまうのである・・・アホですねえ・・・

 切り札を失った西ローマはご存知の通り、領土を次々と奪われてしまった
 のである。

 
 =西ローマ帝国の滅亡=


 さていよいよその時がやってきました。なんて、「その時歴史が動いた」
 みたいな書き方になってしまいまいしたが(笑)ここからは、坂を転がり
 落ちるような展開を迎える。

 わずか6歳で西ローマ帝国皇帝となったウァレンティニアヌス三世が
 暗殺され、テオドシウス朝が断絶してしまうと、帝国の衰退はさらに
 加速していく・・・

 西ローマ帝国内にもはや皇帝の権威などは、ゆきわたらなくなっていた。
 領内には、ゲルマン人の王国がいくつもでき、西ローマ軍そのものも
 ゲルマン人の傭兵たちが、実権を握っていたのが理由である。

 西暦475年、西ローマ軍総司令官オレステスが、無能な皇帝についていく
 ことができず、退位を迫る。

 そして皇帝ネポスを退位させると、オレステスは、息子のアウグストゥル
 スを皇帝にたてたのである。このときまだ16歳の若者であった。

 だが、オレステスのもくろみ通りにはいかず、兵士たちがイタリア全土の
 3割を請求してきたことに、断固拒否すると、兵士たちの暴動が起こった。

 西暦476年、オレステスは兵士たちに捕えられ、処刑されてしまう。

 父オレステスを失った息子アウグストゥルスは、退位するよう要求され、
 アウグストゥルス帝は、元老院で引退することを宣言したのである。

 そして元老院は、東ローマ皇帝ゼノンに、西ローマ皇帝の退位を報告し、
 東に帝冠を返還した。

 こうして西ローマ帝国は正式に滅亡し、その歴史に幕をおろしたのである。
 時に西暦476年・・・つづく

 
 

 さて次回は、帝国最後の皇帝といわれたユスティニアヌスの数々の功績を
 お伝えします。実は西ローマ帝国の滅亡を最後にと、考えていたのですが、
 ユスティニアヌス帝の功績を伝えたいなと思い、あと少しだけ続けたい
 と思いなおしました。
 あと少し、お付き合い下さいませ(笑)

「ローマ帝国滅亡編」〜第4話〜 ゲルマン民族の大移動

☆西欧の神話・歴史・宗教まとめ読み
 「ローマ帝国滅亡編」
 〜第4話〜 ゲルマン民族の大移動


 西暦395年 ローマ帝国が東西分裂する。
 
 

 =西ゴート族のアラリック=


 無能な皇帝に対し、不満を感じていたゲルマン人諸族が、いっせいに
 動き出した・・・

 なかでもさかんだったのが、西ゴート族のアラリックが率いる一群で、
 バルカン半島を南下し、ペロポネソス半島まで侵入した。

 西暦401年、西ゴート族の王に推薦されたアラリックの勢いは止まらない。
 そして西暦410年、アラリックはローマを陥落させ、略奪を繰り返した。

 そしてこのときから、西ローマ帝国は、ローマから北イタリアのラヴェンナ
 にやむなく移すことになったのである・・・

 しかしローマの人々を震え上がらせたアラリックも、病には勝てず急死して
 しまう。

 その後、西ゴート族はイベリア半島に向かい、西暦419年、トゥルーズ
 (現フランス南西部)で王国を建てたのである。


 =フン族の王アッティラ=


 さてさて、その頃アジアの遊牧民だったフン族は王アッティラに率いられて
 東ローマ帝国領から西ローマ帝国領へ移動していた。

 西暦451年、アッティラ率いるフン族騎兵隊はライン川を渡り、西ローマ帝国
 領へ攻め込んだ。

 そして、シャンパーニュ平原(フランス北東部)で西ローマ帝国軍と激突
 した。西ローマ軍が西ゴート族・フランク族と連合軍を形成したため、
 フン族騎兵隊は退却をよぎなくされた。

 翌452年、アッティラは北イタリアに侵入した・・・
 しかしローマ教皇レオ一世の誇り高き姿に、アッティラはローマへの侵入を
 思いとどまったと伝えられる。

 ここから先へはとおさないという強い意志と、ローマはキリスト教の都で
 ありローマの地を踏み荒らすことは、神が許すわけがない!!

 さて、すごすごと引き下がったアッティラに、運は味方しなかった・・・
 翌453年、アッティラは酒に酔いつぶれ、鼻血を垂れ流しながら、死んで
 しまったという・・・

 それを機に、支配地の部族が反乱を起こし、アッティラの王国は消滅した
 のである。
 

 =ゲルマン化する西ヨーロッパ=


 西ゴート族の圧迫をうけたゲルマン民族の一派、ヴァンダル族はイベリア
 半島から北アフリカに移り、ヴァンダル王国を建国した。

 西暦456年、ヴァンダル王ガイセリックは、ローマを荒らしまわった。
 だが、そのことより「帝国の穀物庫」といわれた北アフリカを奪われたこと が西ローマ帝国の命運を奪うもととなった。・・・つづく

「ローマ帝国滅亡編」〜第3話〜 東西へと分かれたローマ

☆西欧の神話・歴史・宗教まとめ読み
 「ローマ帝国滅亡編」
 〜第3話〜 東西へと分かれたローマ


 西暦382年 西ゴート族がローマに全面降伏する。

 西暦387年 マクシムスが軍団を率いてイタリア本土に侵入したが
       テオドシウス帝により、斬首される。

 西暦392年 テオドシウス帝が異教信仰を禁止し、キリスト教が
       ローマ帝国の国教となる

 
 

 =完全に分かれた東西ローマ=


 テオドシウス帝はすでに、病魔に冒されていた。
 彼は死の間際に、長男アルカディウスを東の皇帝に、次男のホノリウスを
 西の皇帝に指名し、兄弟で帝国を二分して、統治するという遺言を残した。

 この分割以後、東西のローマは二度と統一されることはなく、異国同士と
 なるのである。

 ローマ帝国を分割統治することを考えついたのは、ディオクレティアヌス
 だった。だが彼は分割といっても、アメリカ合衆国のような制度と同じで
 完全なる分割ではなかった。

 しかしテオドシウス帝が息子達に遺言したことは、東と西を完全に別な
 国にすることであった。

 これ以降、ローマ帝国が統一される事はなかった。
 テオドシウス帝の息子が帝位を継いだ西暦395年が、ローマ帝国の東西分裂
 の年とされている。


 =無能な息子たち・・・=


 話を少し元に戻そう・・・
 キリスト教を初めて認めた皇帝コンスタンティヌスは、大帝と呼ばれるのに
 相応しい立派な皇帝であった。これは誰も異論はないだろう・・・

 しかし彼の後継者には、愚か者が多く、帝国はその無能な皇帝たちによって
 しだいに滅亡への途を歩んでいくことになる・・・

 ローマ滅亡のきっかけとなったのが、テオドシウスが死に際してローマ帝国
 を、コンスタンティノポリスを首都とする東ローマ帝国と、ミラノを首都と
 する西ローマ帝国に分割し、二人の息子を皇帝に就けたことである。

 テオドシウス帝自身は、前回触れたとおり、東部軍の再編成や、バルカン地
 方の平和回復に尽力し、キリスト教(カトリック)を国教化するなどの功績
 をあげた、立派な皇帝ではあった。

 しかし彼が立派でも息子が立派というわけではない。そう彼の息子たちは、
 愚か者であった。

 東ローマ帝国の皇帝となった長男アルカディウスは、ほとんど実権を持たず
 親衛隊長ルフィヌスなどに操られていたという。

 さらに東ローマ帝国の皇帝となった弟ホノリスに到っては、ラヴェンナで
 休暇中に、ゴート族によるローマ市征服の報せを聞いた。

 彼は大慌てするが、それは「ローマ」と名付けた自分の飼っていたニワトリ
 が、捕えられたと思ったからだった!!なんというアホなんでしょう・・・

 因みに征服されたのが「ローマ市」だと知ると、ホッと胸をなで下ろした
 という(笑)

 あべこべですな・・・

 さてさて、この時期ローマを混乱に陥れていたのは、ゲルマン人である。
 初めはローマ帝国内に定住し、軍の一翼を担うようになっていた。

 そのゲルマン人たちがなぜ隆起したのか!?

 それは二人の無能な皇帝に対する侮辱が許せなかったのである!!

 ゲルマン人は気位の高い種族である。自分の国すら満足に統治できない
 無能な皇帝に、へつらうことなどできなかったのである。

 そしてついにローマ帝国に危機が迫るのである・・・つづく
 
 

 さて次回は、ゲルマン民族やフン族の侵入を防げない西ローマ帝国の
 最後の攻防をお伝えします。お楽しみに〜