イタリアを知って日常のストレスを忘れよう

イタリアブランドの紹介!またイタリアの観光名所やビジネストークに使える、西欧に関する歴史知識や、食やワインも紹介しています!

フェラーリの生みの親、エンツォの孤独な生涯・・・その4

みなさん、ブオナセーラ!!

さて、エンツォ・フェラーリさんのラスト章

です・・・


 
さて、エンツォ亡き後のフェラーリは、

1996年のミハエル・シューマッハの加入から

チームは改革され、1999年にはついに、

16年ぶりにコンストラクターズタイトルを

奪還しました。


その年から、コンストラクターズタイトル

6連覇、ミハエル自身は翌2000年から5年連続

ワールドチャンピオン、つまり2000年からは

ドライバーズ・コンストラクターズ

両タイトルにおいて5連覇という記録を、

残したのです。


フェラーリとは、イタリアを象徴する車で

あることは、間違いない。


ただ、イタリア国内でフェラーリを見かける

よりも、日本の方がフェラーリをよく見かけ

るのは、自分だけでしょうか(笑)


イタリアはトヨタ車が多かった気がしましたね・・


まあそれも当然かもしれませんね、だって

エンツォは、市販車には全く興味がなかったん

です。

彼にとってモーターレーシングだけが、

最大の生きがいだったのですからね・・・


ではチャオ・・・完



他にもあります旅ブログ↓
ヨーロッパ旅行ランキング
人気ブログランキングへ

フェラーリの生みの親、エンツォの孤独な生涯・・・その3

みなさん、ブオナセーラ!!

最愛の息子、ディーノを亡くしたころ、

フェラーリチームのドライバーの死が

相次ぎ、そのたびにエンツォは、ディーノ

の墓に行き、その中に入って鍵をかけ、

沈思黙考にふけったといいます。


ある心理学者は、若いレーシングドライバー

の死は、若きディーノへのいけにえなのでは、

ということまで言われるほどでした。


ディーノの死後、自らが築いた城に、閉じこ

もったまま世間に接し、謎の人物という自分を

演出し、モデナの町から外へ出たがらな

かった。


50年代はレース場にも足を運んだが、ディーノ

の死後、一切レース場とは縁を切ったのです・・


そしてエンツォ・フェラーリにも、死は訪れ

ました。1988年7月24日、医師団は腎不全と

発表した。3週間後・・・エンツォフェラーリは、

おだやかにこの地上での生活を終えました・・・


その直前の彼の心を占めていたのは、同じ病

いで倒れた、愛する息子ディーノの面影だった

のかもしれない・・・


フェラーリという真紅のド派手な車の印象とは

違い、生みの親であるエンツォは外に出たがら

ない、孤独な人物でした。


フェラーリを愛するティフォシたちを熱狂させ、

常にF1という華やかな舞台で、主役を演じ

続けてきた。それとは、全く対照的な人生を

送ったエンツォ・・


ただ愛人はけっこういたようですけどね(笑)

ではチャオ・・・つづく




他にもあります旅ブログ↓
ヨーロッパ旅行ランキング
人気ブログランキングへ

フェラーリの生みの親、エンツォの孤独な生涯・・・その2

みなさんブオナセーラ!!

アルファロメオ社を去ったエンツォは、

念願の自らの名を冠したレーシングカー

の製作に乗り出した。


フェラーリは、立ちはだかるアルファロメオ

の壁を、1951年のイギリスGPで打ち破ると、

1952年と1953年のシーズンには、アルベルト・

アスカリが、連続して、世界チャンピオンの

座につきました。


しかし1954年、エンツォの手を振り切るよう

にチームを去り、ランチャに移籍してしまう。

そのアスカリも不可解な死を遂げてしまい

ました。

 
エンツォと死は、ここから死がまとわり

つくようになり、彼の孤独とは、死別の

繰り返しの上に、なったものかもしれない。


1961年には、フェラーリドライバーのフォン・

トリップスが、最終戦のイタリアGPで、

ジム・クラークと接触して、マシンは観客席に

突っ込み、自らの命と、14名の観客の生命が、

失われてしまいました。


またエンツォが最大の期待を寄せた、

ロレンツィオ・バンディーニは、1967年

モナコで焼死した・・・


エンツォが最晩年に望みを託した、ニキ・ラウダ

も、1975年・77年にチャンピオンに輝くも、

再起不能となるほどの重傷を負い、

ジル・ビルニューブも、大きな期待をかけたが、

1982年のベルギーGPの予選中に、事故死

した。


エンツォ・フェラーリには、相次ぐドライバー

の死とならんで、もうひとつ大きな悩みが

ありました。息子のアルフレディーノ

(愛称ディーノ)の病弱です。


ディーノは、スイスで技師の資格を取ったり

して、出来の良い息子でした。エンツォも

ディーノをこよなくいつくしんだ。


しかし、持病の腎炎は悪化するばかりで、

ディーノも両親も先が長くないことが、

分かっていました。


ディーノの死は、1956年に訪れるが、

エンツォの悲嘆ぶりは尋常なものでは

ありませんでした。

彼の簡素な事務室には、ディーノの写真が

飾られ、その下に置かれた献燈の炎は、

絶えなかったという・・・ではチャオ。

・・・つづく



他にもあります旅ブログ↓
ヨーロッパ旅行ランキング
人気ブログランキングへ

フェラーリの生みの親、エンツォの孤独な生涯・・・その1

みなさん、ブオナセーラ!!

イタリアの車といえば、真っ先に思い出す

のが、真紅の跳ね馬、フェラーリでは

ないでしょうか!!


イタリアのどこの地域のお土産屋さんを

覗いても、フェラーリに関するグッズが

置いてありました。

そのぐらい、イタリアでは人気です。

 
フェラーリは、アルファ・ロメオの

レーシングドライバーだったエンツォ・

フェラーリによって1929年に創設され

ました。


このエンツォ・フェラーリさん、

かなりの変わり者だったらしい。

そして、孤独だった・・・


人間とは本来孤独な存在です。生老病死

のたとえのように、人は必ず一人で生まれ、

一人で死んでいくんです。


どんなに交友関係が広い人でも、友達が

多いと自負している人でも、これだけは

避けられない。


エンツォ・フェラーリさんは、自らが

選択した、ひとつの城に閉じこもった形で

の孤独だった。

彼は自らのイメージを作り上げ、その虚像の

背後に隠れて、世間との対応を行ったのです。


フェラーリがF1レースに進出したのは、

1948年のことですが、もともとは、エンツォ

さんは、アルファロメオのドライバーでした。

 
やがて、生来のマネジメントの才能を発揮

して、当時GP界の王者フィアットから、

優秀な技術者を引き抜いて、フィアットを

蹴落として、GP界の王座を占めたのです。


1939年に、アルファロメオ社を心ならずも

去ると、彼は念願の自らの名を冠した

レーシングカーの製作に乗り出したのです。


さてその後は・・・ではチャオ・・・つづく



他にもあります旅ブログ↓
ヨーロッパ旅行ランキング
人気ブログランキングへ